よくあるかもしれないけどないかもしれない

基本的には思ったことを書くだけのブログ

日本人にとって、日本にとって最悪の結果だよ、という小話。

business.nikkeibp.co.jp

見た目だけが不便のドル箱路線だけ隙間産業としてLCCが存在し、それ以外の路線はレガシーキャリアの皆様方が高価格で運航していくだけになるのだろう。

そして高価格で運航されている地方の空港に中国・韓国のLCCが就航し、各国のハブ空港へとつなぐことで地方の旅客を世界へとつなぐ。

旅客需要は世界のエアラインに取られ、ますます成田空港と羽田空港の国際的プレゼンスは降下し、JAL/ANAはますます「日本人の」ビジネス需要のある国際線しか飛ばさない。結果として日本のプレゼンスはどんどん下がっていく。

デルタは日本を捨てるだろう。上海を拠点にすればよい。

皆が気づいたときはもう遅い。

そして誰もいなくなった

俺たちの片岡飛鳥のクオリティはこんなものじゃないんだぞ、という話。

www.fujitv.co.jp

本質と表層という視点

いまフジテレビを取り巻く状況は最悪である。同業界のみならず、異業界からも「救いようがない」「もう打つ手はない」とか言われてしまう始末。フジテレビはいつからつまらなくなってしまったのだろうか。僕はフジテレビが大好きな人間で、ドラマと言えばフジ、バラエティと言えばフジ、テレビと言えばフジ*1であったが、僕の感覚で言えば2008年くらいからだろうか、その辺からフジテレビを見なくなっていった。

時代の流れなのかもしれない、好みが変わっただけなのかもしれない。確かに僕はいつの間にか子供のころあんなに毛嫌いをしていたNHKをよく見るようになっていたし、バラエティ番組よりもドキュメンタリー番組を見るようになってしまっていた。それは僕が年をとったからだろうか。それとも、NHKが面白くなったからであろうか。NHKが前よりも格段に面白くなったのは事実だと自信を以て言えるが、やはりどう考えてもフジテレビの、しかもバラエティ番組がとてつもなくつまらなくなってしまったのではないかと僕は思っている。

そしてその象徴かのように、先日のFNS27時間テレビFNS27時間テレビ2015 めちゃ×2ピンチってるッ!~本気になれなきゃテレビじゃないじゃ~ん!!~」があげつらわれている。かの読売新聞ではでかでかとコラムの枠がとられ、何もわかっていないコラムニストによる「バッシング記事」が掲載された。

しかし、「過去の使い回し」と「他局の類似企画」が理由なのだろうか?*2

過去の使い回しだろうと他局の類似企画だろうと面白いものは面白いものだ。過去の使い回しが面白くないのなら、延々と古典落語を続ける落語家はどうなってしまうのだろう。リメイクを続ける志村けんはどうなってしまうのだろう。面白さの本質は新しさではない。本気が類似企画や使い回しにはないだなんて、志村けんに向かって堂々と言えるのだろうか?

ネットでも原因は予算の縮小による〜とか安易な番組作りが〜とかそもそもフジテレビがクソとかありがちな原因から恨み言のような指摘まで様々なものがあふれている。しかし、僕はどれにも賛同できない。

なぜなら僕は、なぜ自分たちが面白いと過去に言われていたかについての「本質」を理解していないスタッフが増えたからではないか、と思っているからだ。

ありがちなリメイクや続編の落とし穴

映画でもドラマでもなんでもそうだが、リメイクや続編を制作するときに「何を引き継いで」「何を新しく」するかという選択はよく間違えてしまう。無論、どのようにしたいかによってその正しさは可変なのだが、唯一「形をとりあえず追う」パターンだけは絶対に失敗する。なぜなら「なぜそのような形になったのか」をきっかけ・経緯を理解せずに成り立たせようとするからだ。

道に迷った作品のオリジナルが偉大であるように、かつてのフジテレビはさんま(ビッグ3)をはじめ多くの芸能人が言うように確かに凄かった。地下芸人のタモリをお昼の帯番組に据え、人気のない小堺一機に帯番組を任せた。特番が1桁台のひょうきん族をレギュラー化し、チャンスを与えられた石田班は見事にレギュラー化を勝ち取った。上層部の判断も凄ければ、また、制作陣は見事にその期待に応えて数々の伝説を築き上げた。

そして今年の27時間テレビを制作した中心メンバーであるめちゃイケ班もフジテレビの一つの伝説である。フジテレビらしさに溢れる華々しい企画・斬新な演出で人気を集め、90年代後半のバラエティ番組の雛形を作るまでに至った。

しかし、誰もが思う「なんだか違う」めちゃイケになってしまっているのは、ネタ切れでもなんでもなく、華々しい過去が「本質」が霞ませ、現場の作家、ディレクター、そして演者ですら本質の追求をいつしかやめてしまったからだ。そう、リメイク・続編の失敗パターンにはまってしまっているからである。これはめちゃイケにはもちろんのこと、フジテレビ全体が陥っている病であろう。

そして、今年の27時間テレビはまさにそのパターンにはまっていた。

本質とは何か?フジテレビらしさとは何か?

この問題を考えるときに僕はいつもこの対談の三宅さんの発言を思い返す。

ほぼ日刊イトイ新聞 - おもしろ魂。

笑いの場合には、
「おもしろい台本ですから、
 これをそのままやってください」では、
絶対に出演者はみんなそのとおりには、
やらないんですよね。

しかも、そこで台本どおりやるような人は、
そもそも、だめなんです。

「あ、これおもしろい……ちくしょう……」
そこから自分で考えるような人ばかり、
ぼくは、つきあってきました。

「だから、まずは
 演者を乗せることから憶えなきゃ」
っていうような話を、
腹が立ってきたものだから、
そのディレクターに、
延々と話してしまいまして……(笑)。

 フジテレビバラエティ番組の伝統とはこの「演者の自由度と演出の束縛」のバランスが肝であった。100%作り上げるドリフ(アドリブでさえリハで出し切っていたそうだ。)に対して、決まった台本とその設定で遊ぶ演者による爆発にかけたひょうきん族。そしてその伝統を引き継ぎ、場所を中から外に移して、よりハプニングを発生させるように仕掛けたのがめちゃイケである。フジテレビのバラエティは事前の制作陣による強固な土台の設計とそこで演者に遊ばせる懐の広さが絶妙なバランスを保っており、そここそが面白さの秘訣であったと言っていい。

 そしてめちゃイケを作り上げた片岡飛鳥自身もこのようなことを言っている。

mikageya.com

三宅さんは技術的なことはあんまり教えてくれないけど、
「笑いの心」みたいなものは大切に教えてくれるからね。
俺がそれで教えてもらったことで、印象に残ってるのは
「笑いは空気だ」ってこと以上に、
【ディレクターは全部説明できなくちゃいけない】ってこと。
例えば、この飲み屋のスペースがコントのセットとするじゃない?
もし、高須さんがディレクターだったなら、
高須さんは今、このテーブルに来てる「おぼろ豆腐」の意味を
説明できなくちゃいけないのよ。

一見するとさ、それを説明しようとすることが
おもしろさに繋がるような気はしないわけさ。
別に飲み屋に豆腐は変じゃないでしょ、とかってなるわけ。
でも、そういう納得をしちゃう人はディレクターに向いてないわけさ。
タレントさんがいて、セットの中でキャラを演じる時に、
「ねぇ、これどうしておぼろ豆腐なの?」と聞かれたら、
それを的確に説明してあげるのが演出であって、 ディレクターの仕事なんだ、と。
中には説明が足りなければ、不安になるタイプのタレントもいるから。
全てが説明できる空間でなければ、タレントは安心して遊べないわけよ。
安心して遊べるときにはじめて、笑いの力が発動するっていうのは
三宅さんに教えてもらったことで、今、自分の中でものすごく納得してる
ことなんだけどね。

また、別のほぼ日の連載ではこのようなやり取りもあって、まさにフジテレビのバラエティの魅力、そしてめちゃイケの魅力を言い当てているなぁと思える会話があるのでそちらも抜粋させて頂く。

ほぼ日刊イトイ新聞 - ほぼ日テレビガイド2004・2005

糸井 そう考えると次長課長のタンバリンが光るな。
あのタンバリンはほんとにおかしかったんです。
西本 ぼくが感心したのが
タンバリンが3つも用意されていたことですよ。
ふたり あああ~。
西本 番組側の準備の周到さが出てましたね。
永田 しかもすぐ出さずに、
「タンバリンある? きたきた」
っていう感じで出てきたでしょ。
糸井 そう。そこの演出もいいんだよね。
西本 あれ、もっと準備してますよ、きっと。
山本さん、品川くんのほかに
さんまさんがタンバリンを叩くことも
流れのなかでは
ありえたかもしれないじゃないですか。
もしかすると準備する側は
全員でタンバリンを叩くという
絵ができる可能性もいったんは描くわけで。
それを考えると
あの番組は恐ろしいと思いましたよ。
糸井 ということは村上の発言から
タンバリンに広がったのは偶然じゃないんだ。
西本 村上発言はリサーチしてあるでしょうから、
その発言をどうフォローするか
ということですよね。
タンバリンを使わないことも、
もしくは全員が使うことも考えてるんですよ。
糸井 すばらしいね。
「そういう仕事をしたい」というのが
にしもっちゃんの考えることですよね。
西本 ええ。そのとおりです。
総合演出という立場の人が
なにが起こるかわからない生放送のなかで
どこまで想定して準備をするかということと、
その場でどんどん決断して
捨てていくというすごさですよね。
「さんま・紳助」の
コーナーでもそうでしたけど、
あれだけ芸人さんが集まって
ものすごく真剣にやり合ってるなかで、
どのタイミングでCMに行くのか?
というのはすごい決断ですよ。

 これをしかも生放送で軽くやってのけてしまうところ、これこそがフジテレビであり、その系譜を受け継いでいるめちゃイケなのだ。

しかし、ここ最近のフジテレビはこれができなくなってしまった。何ができなくなってしまったのか、それは生放送での対応・・・ではない。笑っていいとものグランドフィナーレを見るとわかる。フジテレビバラエティ班の生放送への対応力は全く衰えていない。CMのタイミングからスイッチング、あれだけの大物がいる中であのステージを生放送で(いや生放送だからこそ)作り上げてしまう力、それが未だ健在であることを立派に証明してみせた。

できなくなってしまったのは舞台設定の構築である。片岡飛鳥の言う「なぜおぼろ豆腐なのかに理由があり説明できるようにすること」である。

今年の大久保のマラソンに何か意味があったのだろうか。フジ縛霊はどうしていきたかったのか。どこにオチがあったのか。なぜスリラーなのか。ホンキーダンスは岡村隆史の1時間ダンスの前振りではあったが、1時間ステージに何の意味があったのか。そこに芸人としての見せ場はあったのか。なぜ27時間放送し続ける必要があったのか。

ここで片岡飛鳥の集大成であった2004年の27時間テレビと対比しながらこの問題点を考えてみたい。

片岡飛鳥らしさが詰まった最高に笑えた27時間の至福の時

2004年の27時間テレビはただただ片岡飛鳥の考える、そして構築してきた「お笑いの雛形」の集大成であり完成系のようなバラエティ番組であった。好き嫌いはあるだろうが、生放送のテレビ番組として2004年の27時間テレビを超えるものはないのだろうと思う。なぜなら、すべての企画が緻密な台本と設定、そして「遊び」によって支えられていて、その帰結が必ず「お笑い」になるコント番組であったからだ。

笑わず嫌い王のオチはなんだっただろう?今であればとんねるずがネタをやってただの豪華なネタ見せ番組になっていただろう。加藤のマラソンはどうなっていたか?今であればかおりちゃんが出てきて涙の再会で終わっていただろう。岡村のボクシングは?かま騒ぎは?

笑わず嫌い王はただのネタ見せ番組ではなく、最後に「裏かぶりで画面から消えなきゃいけないナインティナインの為に時間がなくなり、ネタができない山本圭一」というオチが用意されていた。しかも仲が良いはずの石橋貴明が嫌いな芸人として山本を選ぶというオチまで用意され、その後はお約束の「ブチ切れで大混乱のままCMにいく」という最高に綺麗な流れが用意されていた。

中居くんにもしっかり見せ場が用意されていた。SMAPが5人揃ってライブをするというのがメンバーの「ボケ」によって毎回達成されないというコントを27時間(正確には日曜日の夕方あたりに達成された)に渡って行った。(途中でスマステーションとクロス中継まで行って視聴者の度肝を抜いた。特にテレビ好きの。その衝撃に関してはその後のさんまによる「中居!説明してくれ!」の一言に集約されている。)

かま騒ぎではお笑い芸人たちのお祭りを用意した。おそらくとてつもない時間を取材に費やし、いろんな仕掛けを用意して盛り上がるように持って行った。そして片岡飛鳥ひょうきん族ADという伝家の宝刀を持ち出し、ハプニングとして「出たがりの明石家さんまが帰っていなかった」という最高の演出/仕掛けをそこに施した。見ている側のあの瞬間の「キターーー!!!!!」というワクワク感は本当に忘れることができない。無論、翌年のさんま×紳助にも大興奮をしたのだが。(ちなみにあの場で明石家さんまが本気で矢部に駄目出しをしていたのだが、当時の矢部の司会とフジテレビ大反省会(2002〜2013)でのさんまの司会を比べると怒る理由もよくわかる。)

そして明け方のココイチテン。後年の歌うま選手権につながる企画だが、「みんなうまかったね」では終わらなかった。最後に内村光良が当時の笑う犬のコントの衣装で登場し「ド下手な歌」を歌い、(途中から歌を歌わず)殺陣を演じ、そのまま「蒲田行進曲」(=ヤラセのネタばらし)をやってオチをつけた。*3

加藤のマラソンは番組の大オチのために用意されていた。最初から「こんなマラソン誰も求めてない」「走らなくていいだろ」と「イヤイヤ走る加藤」という設定(前振り)をイヤというほど繰り返すことで構築しながら、さらにスーパーサッカーの生放送に連れて行き(しかもTBSのプロデューサーが出演したのである!)、マラソン中に多摩川の土手を走る加藤で金八先生のオープニングを生放送でやり、朝8時にはのりお師匠が出てきて、散々マラソンとは関係無いことに付き合わせることで加藤を振り回した(という設定)。これは単なるマラソンコントではなく、「イヤイヤ走る加藤を走らせているのにも拘らず、しかも足を引っ張る」というオチに向けてのさらに強化した「前振り」である。

岡村隆史のボクシングは「テレビの本気」を見せるための「無理をさせる」企画ではなかった。実際は無理をしただけの企画になってしまったが、これは「岡村隆史が凄すぎることをやったおかげで皆が加藤のマラソンを忘れる」為の「フリ」でしかない。岡村隆史具志堅用高と死闘を繰り広げる→加藤のマラソンを忘れ皆が感動する→いつの間にか加藤がゴールしている→「イヤイヤ走らされ」「足も引っ張られ」「最終的に忘れられた」加藤がブチ切れて山本とケンカコントに持ち込む、という27時間を使った壮大なコントでしかない。

演者たちは真面目にやっている。もしかしたら感動も起きるかもしれない。しかし趣旨は「そこではない」のだ。

めちゃイケが面白かったのはいったい何か?

こう考えてみると2007年のオカザイルを境にオファーシリーズが面白く無くなっていき、中居正広の日本一周が「ただの繰り返し」になっていったこともわかるのではないか。

目的は「そこではなかっ」たはずがいつの間にか「そこ」になっていた。がんばる岡村隆史に感動するのが目的ではない。年末に岡村隆史フルマラソンを「間違えて」やってしまう。*4がんばる岡村隆史が「つい」中居くんより前に出て踊ってしまう。「つい」マイクを奪って歌ってしまう。がんばる岡村隆史のがんばってる方向が間違っている、もしくはその努力が誰かに迷惑をかけてしまう、やってはいけないという前振りを崩してしまう、そういったことが「そこ」であったはずだ。

中居くんがぞんざいに扱われるというのは日本一周という壮大なコントの大目標だが、緻密に組まれた流れと設定の中で中居正広が巻き込まれるというのが醍醐味であって、毎回サングラスが破壊されたり、風呂場が流されたりといったパーツパーツをなぞることではない。パーツはコントの設定と状況に応じて毎度姿を変えていくべきものであって、サングラスを破壊するために流れを作っているわけではない。最近の神父によるキスコントはもはや「むりくりぞんざいに扱う流れを作っている」ようにしか見えなかった。主従が逆転している。

今年の27時間テレビだってそうだ。

フジ縛霊には取材はあったか?仕掛けはあったか?スリラーのオチは全体でどこのつながっているのか?なぜ若手芸人が前に出られなかったのか?実力不足が問題なのか?仕掛け不足が問題なのか?さらば青春の光の問題は気まずくならない仕掛けはあったか?丸投げではなかったか?仮に丸投げでも処理できる実力とサポートがそこに用意されていたか?

ダンスでやりたかったのは何か?No Limitの無限ループはただ無理をさせていだけではなかったか?

マラソンでは何がしたかったのか?コントはどういう意味があったのか?加藤が丸刈りにすればそれはオチなのか?

全ては笑いの手段であったはずが、いつしかお約束だけがなぞられるようになり、「なぜそのようなお約束ができたのか」を考えることを忘れてしまった。

めちゃイケの異変とはここに原因があり、そして27時間テレビのつまらなさへとつながる。全ては緻密な設定と台本とあそびによる「ボケ」を「コント」という手法を用いて作り出すのがまさにめちゃイケであり、めちゃイケ班が作る27時間テレビであり、「そこ」こそが「本質」であったはずだ。

昔のめちゃイケは感動の後にオチが必ず出てきた。しかも壮大な感動の後に「とてつもなくくだらない」オチがでてくる。毎回、視聴者はオチがあることを知りながらどう落とされるのかワクワクしていた。

しかしいつからか舞台設定を作ることがなくなった。流れも消滅した。だからこそボケの威力がなくなった。全てが単発となりお約束を表面的に繰り返すように見えるようになった。岡村隆史ががんばることが目的となった。「過去の使い回し」と言われるようになった。全てがとってつけたボケに見えるようになった。表層的と感じるようになった。感動させるようになった。そしてつまらないと思うようになった。ここまでくればいかにかのコラムニストの指摘が無意味で浅いかがよくわかるだろう。問題の本質はもう一段深いところにある。

設定と流れが緻密であればあるほど使い回しにもお約束にも意味が発生する。なぜならおぼろ豆腐にさえ意味性を作り出すのが設定だからだ。そしてボケが流れの中から生まれるから笑いは単なる足し算ではなく、幾何級数的に増幅していく。そして流れのある感動だからこそ、くだらないオチが際立つ。それを毎回やっていたのがめちゃイケであった。だからこそ奇跡のように面白かった。

無論、片岡飛鳥も偉くなりすぎたし、めちゃイケメンバーも忙しくなりすぎた。そして大物になりすぎた。だから昔は勢いだけでできていたことができなくなっているだろうし、昔は時間をかけることができた打ち合わせとリハーサルに時間がかけられなくなったのかもしれない。

めちゃイケの最初のオファーシリーズで「ただダンスを真面目にする」ことの何が面白いんだと片岡飛鳥に食ってかかった岡村隆史。今のめちゃイケを見て彼は何を思うのだろう。僕は今こそ、岡村隆史片岡飛鳥をビンタしてほしい。あなたの面白さとはこんなものではなかったはずだと。

当時は若手芸人ならではの笑いもあったのは確かだ。しかし、今は今で面白いことができるはずだ。岡村隆史に限って言えば、僕は、今が一番面白いと思う。彼は地獄を見て、本当に面白くなった。つまらなくなった期末テストも岡村隆史の抜群の「いじり」能力で面白いコンテンツであり続けている。前回の期末テストの岡村隆史は本当に圧巻であった。応援し続けてきて本当に良かったと思うし、これからも応援し続けていきたいと思う。

僕はまだ信じたい。ナインティナイン片岡飛鳥というユニットの能力を。

次こそ、本気を期待します。

 

最後に松本人志のワイドナショーでのコメントを紹介してこの記事を締めたい。

www.excite.co.jp

「パロディーやってんのに、日テレの真逆にいっていない時がある。大久保さんのマラソンとかさ」

「チャリティーじゃないんやから、別に走る意味もないし、別にヤラセでもいい。もう、(番組の意味自体が)ねじ曲がっちゃってる」

「(芸人を)ポンと丸投げで、雑に扱ってる」

「僕はもうちょっと愛をもってやってほしい」

「うまくいったらお互いの得で、まずくなったら芸人が損する」

「芸人が頑張るだけに、とにかく芸人が損する感じが、僕はすごく悲しい」

 

*1:報道は口が裂けてもフジとは言えず昔から三流の報道で、フジの報道の人でさえフジ報道志望の学生に「なんで報道なのにフジなの?」というレベル

*2:あんなコラムで金がもらえるのだからいい商売だ。

*3:映画版の蒲田行進曲をヤラセというと語弊があるのだが、劇中劇、という意味で。

*4:思えばこれが加藤のマラソンコントの原型だ。

スカイマークはデルタ航空に支援してもらった方がいいんじゃないの?、という話。

www3.nhk.or.jp

自民党と結託することを選んだ第二のJALことANA

とにかく日本における航空行政の過度な管理には辟易させられる。バカな田舎の国会議員に無駄な路線を開設させられ、アメリカ政府を通じて圧力をかけたボーイングに屈して大量に747-400を買わされたJALはドル箱路線を多数抱えているのにも拘らず、いつの間にか超高コスト経営となり行き詰まった。アジアのハブ空港となる可能性のあった成田空港は当時の時代感もあいまり、その強引なやり口が左翼(新左翼)勢力を煽った結果、国際都市の首都圏にある国際空港としては酷く中途半端な空港となってしまい、いつの間にかその立場を仁川とチャンギに奪われた。

平成の訪れとともに航空行政も緩和されていくかと思いきや、JALの再生の経緯がとにかく気に入らないANAJALの再上場直前に公募増資を決定*1したばかりか、悪代官と結託する越後屋のごとく自民党に圧力をかけ続けた結果(実績が欲しくて官僚をいじめておけば国民の評判になると思っている頭がお花畑の議員はころっとなびき)、JALの再上場は一時危ういものとなった上に、羽田空港の国際線の発着枠はANAに優先配分された。

国の力を使ってJALを攻撃するANAだが、結局、ANAのかつてのJAL対比での比較的高効率(JALが低すぎただけなのだが)経営は面倒な部分をJALが全て負っていただけであり、彼らの努力だけとは言い切れない。鍛えた翼は強いらしいのですが、そのユニットコストで鍛えてるとおっしゃれるのがすごいですね。

www2.deloitte.com

www.youtube.com

これをJAL会社更生法のお世話になるかどうかのタイミングで流していたのだから趣味が悪いにもほどがある

しかし、うまい話はそうあるわけでもなく、発着枠だけではなく、今度はスカイマークを押し付けられることになってしまった。あれだけJALに投資をするなと迫っていたのだから今更スカイマークを押し付けるわけにもいかない。それに発着枠を金で買ったとも言われたくない。しかも将来的には手放さなくてはならない。つまりANAは今回「慈善事業」をやる羽目になりそうだということだ。しかし、それもこれもANAが政治に接近しすぎた結果であり、最近のANAの下品な経営を見てげんなりしていた私としては「ザマァwwwww」と言いたい気分である。

日本と意外に縁の深いデルタ航空

と書いてはみたものの、縁が深いのはデルタではなく、かつて存在しデルタ航空に買収された「ノースウェスト航空」である。ノースウェスト航空はかの「もく星号」から日本の航空界を支援してきた会社であり、その功績を認められたこともあり、欧米系の航空会社として日本の空港を拠点とした「以遠権」を保有している会社でもある。

以遠権 - Wikipedia

その権利を合併時に引き継いだデルタ航空は今でも成田空港を拠点としてアジア各国への航空便を運行している。一方で、デルタ航空が所属している航空系アライアンスであるスカイチームに日本の航空会社は参加していないため、日本国内の便は必ずしもよくないというのが現状である。本来的には、[日本各地域/アジア各国]ー[羽田/成田]ー米国というルートを開設し、日本各地発の便(コードシェア)+以遠権を生かしたアジア各国からの便(自社+コードシェア)を成田・羽田に集約して、両空港を極東アジアハブ空港として運用し、両空港からの便を米国のハブ空港デトロイトミネアポリスポートランド便)につなぐことで、米国-アジア路線の覇権を握りたいところだろう。特にアジアは距離の問題以上に需要の問題があるため、米国各地からの直行便を開設するよりも、ハブ空港(ここでは成田・羽田)に一定の旅客を集めた上で運行する方が効率が良いはずである。おそらくその狙いもあり、デルタ航空JALの支援者として手を挙げていた。

デルタ航空とスカイチームが日本航空への支援を表明

日本にとっての利益とは何か

日本にとっての利益は成田/羽田に人が集まることである。日本国内への旅客増はもちろんのこと、乗り継ぎでもなんでもヒト・モノ・カネの集まる国際都市としてのプレゼンスを上げることこそが利益であり、もはや世界のエアラインと戦う気力をなくしているJALANAの利益を最大化することではないのは明白である。だとすれば、アジアのハブが欲しいデルタ航空スカイマークが協働していくのは、こちらにとって全く悪いはないでないばかりか、むしろ航空行政によって破壊し尽くされた日本の航空ビジネスの最後の希望ではないか。

スカイチームには大韓航空中国東方航空中国南方航空が加盟しており、極東圏には既に日本以外の主要エリアには拠点を保有している状況である。デルタ航空としてはより加盟航空会社が多く、旅客需要の多い上海をハブ空港とすることも検討しているようだ。

www.bloomberg.co.jp

そこで日本に最後に残った希望は件の以遠権である。デルタ航空の保有している以遠権はあくまで日本発着便だ。だとすると、デルタ航空の本音としてはなるべく日本をハブ空港として活用したいが、使い勝手も悪いし、日本国内の便も悪いしで以遠権と天秤にかけてしまうとまぁ上海だろうなぁ・・・というのが現状の検討具合だろうかとは思えるので、もし日本の便がデルタ航空にとってよきものになるのであれば、成田/羽田のハブ空港化へと再度舵を切る可能性があると思っている。

もちろんスカイマーク側にとってみても、ANAANA系(Air DOなど)で張り巡らされつくした国内線でコードシェア便としてのおこぼれをもらうことしかできないANAによる支援よりも、ANAでもJALでもない第三極としての立場を維持しながら、デルタ航空の乗客の乗り継ぎという新たな需要を見出すことができるデルタ航空による支援の方がよほどよい。ついでに詳細は後述するが、デルタ航空が本腰を入れて成田/羽田のハブ空港化を進めた場合、KLM系(KLM、エールフランスアリタリア)も成田/羽田を極東アジアハブ空港として活用する可能性もあり、その場合に米国だけではなく欧州の乗客も狙うことができる。ついでに企業としての体力回復後にスカイチームの日本発アジア域内担当として夢の海外路線への進出もまた夢ではなくなる。

つまり、デルタ航空スカイマークを支援することは両者にとって利益があるばかりか、日本の国益にも叶うと考える。

もしスカイマークデルタ航空が協働することになったら

 スカイマークスカイチームに加盟し、デルタ航空が支援することになったとしたら、事としてはデルタ航空の便が増えることだけにはおさまらないだろう。仮に全て事がうまく運んだケースを少し妄想してみて本エントリーの締めとしてみる。

デルタ航空が日本国内各地にコードシェア便を設定。地方に住む人たちの利便性が一挙向上。

現時点で地方の人たちが通し発券で米国へ行こうとすると、ワンワールドJAL)、スターアライアンスANA)で国内乗り継ぎ便を利用するか、大韓航空アシアナ航空などを利用して海外乗り継ぎを利用しているパターンが多かろう。ここにデルタ航空発券でスカイマーク乗り継ぎという新パターンが生まれる。

デルタ航空極東アジアハブ空港として成田・羽田を選択。デルタ航空のアジア各国からの便が成田・羽田に集約される。

デルタ航空の手が回らない分についてはスカイマークデルタ航空とのコードシェア便として国際線運行を始めればなおよい。

デルタ航空のおかげでスカイチームの極東ハブ空港としての価値があがった成田/羽田空港に他のスカイチーム加盟会社であるKLM系(KLM、エールフランスアリタリア)も重視し始める。

デルタ航空スカイマークによってアジア各国への便が充実し、ハブ空港として機能し始めるとKLM/エールフランス/アリタリア極東アジアハブ空港として成田/羽田を重視し始める。その結果、欧州各国へのアクセスも向上する他、欧州各国からのアジア行きの旅客が日本を訪れるようになる。スカイマークも国内線需要とアジア域内便の需要を増やすことができる。

ついにアジアのハブ空港の座を奪還・・・!

後追いしかできないJAL/ANAもようやく重い腰をあげ・・・るかな。どうせあいつら足の引っ張り合いするだけだろ。

*1:上場会社として史上最低の決断でありマナーのかけらもない下品な経営判断で非難されてしかるべき。

ちょっと最近のオリエンタルランドにくだをまいちゃうよ、という話。

完全な手詰まりのオリエンタルランド

オリエンタルランドは実は手詰まりであるというのは、その業績と株価推移からあまり指摘をする人はいないのであろうが、個人的に既に手詰まり状態にあると考えている。というのは、どの決断も全て遅く、そしてどの決定も長期に渡る戦略的な意思決定がなされていないからである。

根本的な改修が必要な東京ディズニーランド

http://www.olc.co.jp/news/olcgroup/20150428_04.pdf

GW前にパーク拡張の詳細を発表して話題になった。(プレスリリース)

このパーク拡張計画の基はもちろん彼らの言う所の「舞浜の価値向上」施策の一つなのであろうが、考えるに売上の向上というよりパークが既にパンクし始めていることに対する「本格的な対処策」であると考えるべきであろう。

当然キャパシティの向上は入場制限の解消につながり、逸失利益を減らす効果も出てくるのだが、近年ようやく騒がれ始めてきた「あまりに酷い混雑」による悪化したゲストのエクスペリエンスへの対処の方により効果が出てくる施策だ。今までアトラクションの改築などのパッチワークでごまかし続けてきたツケが今更にしてまわってきたということであろう。

では、いつがポイントだったのか。僕自身が雰囲気として東京ディズニーランドの異変を感じ始めたのは2004・2005年あたりのことだ。ドリームライツの成功とハロウィーンの定着、ディズニーシーの敬遠とディズニーランドの集客をブーストさせる要素が奇跡的に揃い始めて特に9ー12月期の客数が異常なことになり始めていた。今でこそ、そのシーズンの混み具合は風物詩的に語られるが、昔からのディズニーランドを知っている身としては「明らかに潮目が変わった」と感じられる瞬間であった。

そして最初に「酷いことになり始めている」と感じたのはファンタジーランドの大混雑である。思えばファンタジーランドはほとんどのアトラクションが開園当初から変わっていない一方、他テーマランドの新築・改築の影響を被っているテーマランドである。つまり、現状に全くそぐわない状態になっているのはこの文脈から明らかだ。

もともと他のテーマランドと違って*1通り道を遮る形でアトラクションが設置されているファンタジーランドは、ハニーハントの敷設によって追いやられてきたティーカップもあいまって、人の流れが滞留しやすく混雑が発生しやすい。*2そこへアテンダンスの急増により酷い状態になっていたのがファンタジーランドだった。

この潮目の変遷を「一過性」と見るか「兆候」と見るか、そこにオリエンタルランドの戦略的な判断としての分水嶺があったのは間違いない。結果は「兆候」だった。

実はハイリスク経営で事業的なリスクヘッジ策が皆無

2011年3月11日に発生した大震災で影の被災地と言われた浦安市ではあるが、ディズニーリゾートについては幸い大きな被害もなく約1ヶ月程度のクローズで再開に漕ぎつけることができた。しかし、オリエンタルランドの経営陣は「売上が全くない」という未曾有の事態に戦慄していたであろうことはまちがいなく、誰もが思いついていながら誰も対処をしていなかった経営のリスクが一挙に曝け出されてしまった。ちなみにその1ヶ月の間に東京エリアはほとんど現状に戻っていたにも拘わらず開園できていなかったのは「自粛ムード」の中での再開判断が非常に難しい状態にあったからである。当時、新聞で何度か再開日程の誤報が相次いだが、あれは誤報でもなんでもなく、オリエンタルランドが「アドバルーン」を揚げて世間の反応を窺っていたと見る方がより自然である。

つまり、経営のリスクとはこのクラスのトップラインを誇る企業のサイズに対して、事業拠点が異常に限定的であるにも拘わらず、その対策が今までずっと手付かずであることだ。以前はイクスピアリの他地域への展開等も検討していたようだが、イクスピアリ自体がそこまで好調ではない(至極当然な結果ではあるのだが、それはまた別のお話)ことに加え、ディズニーリゾートの売上をイクスピアリという業態でカバーできるわけもない(何箇所必要なのか、いい場所はイオンがいるんじゃないのかetc)のだから、検討の俎上にあった時点でお粗末な話であろう。

2011年にそのリスクに直面したにも拘わらず、結果何も検討していない----上場企業として「最低」である。おそらく震災後の単価の引き上げによる予想以上のトップラインの伸びから「やはり本業に集中すべし」という「ありがちな」判断をしているのであろうことは容易に想像ができるのだが、しかし、似たような事例が腐るほどある典型的な失策を取るダメ企業と言わざるを得ない。同様に、事業展開エリアが一拠点しかないUSJが、近年の集客向上とハリーポッターの成功にあぐらをかくことなく、積極的に海外を含めた他地域への展開を検討しているのとは対照的である。*3

では、なぜ検討していないのか。無論、オリエンタルランドには企業として新規事業を展開するほどのセンスと実力がないのは明白ではあるのだが、そこを差し引いた上で「なぜ」ということを考えてみると、先のディズニーリゾートのパンク状態によって、オリエンタルランドは新規事業の一手を打つ余裕がなくなってしまった、と見るのが自然ではないだろうか。

「どっちも」が不可能な状態

パークのパンク状態は既に喫緊の対応を必要とするほど酷い状態に陥っている・大きな経営リスクを背負っているのも明白である・・・さて、どちらを取るのが正解だろうか。実はどちらか片方だけという時点で既に失策である。なぜならどちらも明らかに急を要する重要課題であるからだ。しかし、オリエンタルランドの企業内リソースと投資へのスタンス(財務が異様に堅実というのも頭が古い会社の特徴)からするとどちらかしか取れない。しかも震災と円安による建設費の高騰からパーク改修のプロジェクトコストの負担量は指をくわえている間に上昇する一方である。*4さらに言えば、これほど重大な課題が目前にあることが明白であるにも拘わらず、これ以上何も手を打たないのは経営者として怠慢である。だからこそ、この現状は「手詰まり」なのだ。*5

では、どうするべきだったのか。オリエンタルランドに受け入れられそうな案を具体的に言えば異変が表れ始めた2004年・2005年あたりからパーク改修の検討に入り、TDSの一連の巨大投資(レイジングスピリッツ・ブラヴィッシーモ・タワーオブテラー・レジェンドオブミシカ)が落ち着いた段階で実行プランへと落とし込み、2010年〜2013年あたりの完成を目指すという形である。資金面で言えば当該時期に非常にくだらない自己株式の買付を行うほど余剰資金があったのだから工面は可能であったはずだ。*6

そして2011年に経営のリスクに直面し、再度舞浜外の事業の展開を検討→2015年には何らかの形でシードがスタートという流れが「震災」というイベントを織り込んで過去を眺めてみると綺麗なストーリーであっただろう。

上記から考えてみると、いくつものポイントでオリエンタルランドは戦略的にいつか大きな問題になりうるであろう2つの経営課題の解決策を戦略的に判断するタイミングがそこかしこに存在していたのは間違いなく、2つの課題が重大になる前に大きな負担なく解決可能な状態を作り出すことは可能であった。つまり、ようやく具体案の発表にたどり着いたパーク改修策は遅きに失した判断であると言える。これだけを以ってしてオリエンタルランドは長期に渡る戦略的な経営判断が行われていないと言うことができてしまうのではないだろうか。

VCとかやっちゃえばいいんじゃないの?

とはいえ現在から過去を見て「ここが」というのはある意味では意味があるし、ある意味では意味のない分析である。であるからして、一応、これからの施策をブレスト的に考えてみようと思う。

前提としては

  • オリエンタルランド事業構造からしてキャッシュリッチである
  • 社内リソースは限定的で、おそらく新規事業を考え・実行できる人材は存在しない
  • 数千億円規模の投資を今後行うことを発表している

まず、オリエンタルランドは基本的に売上は現金で入りながらにしてキャッシュアウトは掛けで行えるという、事業構造からしてキャッシュリッチな会社であることは明白である。(にも拘わらずこの会社は投資を全然しないのだが)一方で、今までの様々な失敗(なぜか映画に投資したことあったよね)から鑑みるに、自身で何か新しいことを始めるのは不可能と断言してよいだろう。*7また、先にあげた大規模投資があるためキャッシュアウトが見込まれている。

・・・何もできないなら外部に頼っちゃえばいいじゃなーい、ということでVCからなんか買えば?

すごく投げやりになってしまって恐縮なのだが、実際、もう外部の人間を雇うでもヴィークルごと買うでもいいから、新規事業については外部の人間を頼るということを真剣に検討するべきタイミングになってしまったことは認めるべきだ。それにキャッシュリッチであの格付けを維持している企業なのだから、リスク投資を行えないことはないのではないか。仮に大規模投資のおかげでキャッシュが、と言うのであれば、幸いにしてオリエンタルランドは財務的に健全な会社なのだから、おそらく銀行借り入れのレートも低いし、であるから社債のレートも当然のように低いし、消却したのかどうかわからない自己株式の放出だって、増資だって、あらゆる資金調達手段を視野に入れられるのだ。*8例えばドコモのような完全に成熟し、売上も高いレベルで保ててはいるが、自らの力での拡大に失敗し続けている、という会社は積極的にベンチャー投資・ベンチャー育成をしている。もしそこに良いシードがあれば取り込めばよいし、そうでなければイグジットで稼げばよい。本来的には本業とシナジーのある分野への参入をお勧めしたいところではあるが、申し訳ない、オリエンタルランドの実力では不可能である。

え?スープストック買ったじゃないかって?

ほら、投資判断も含めて外部の人間に頼った方がいいってわかったでしょ?

*1:スタージェットとチャイナボイジャー以外は基本的に建物が壁沿いに設置されていて人の流れを遮らないよう工夫されているはずだ。

*2:ファンタジーランドは子供連れが多く、それだけで滞留要因となるのに、ビッグサンダー・スプラッシュ・ホーンテッドマンションあたりからハニーハントへ向かう人々が一定数存在するため、ファンタジーランドに用がなかったとしてもかなりの数の人がファンタジーランドを訪れる。

*3:他地域への展開を含めたストーリーがあって、その上で上場というのは陳腐な言葉使いで恐縮だが非常に素晴らしいエクイティストーリーだ。

*4:さらに言えばディズニー本体へと支払う費用も円安によってバカにならないレベルで増大しているはずだ。もちろん、為替予約はしているのだろうが。

*5:ちなみに震災等の緊急時に資金を工面する仕組債を発行しているから来るべき事態に対応できているという反論も聞こえてきそうだが、所詮はその瞬間に現金が入ってくるだけで恒常的に売上が立つわけでないので、基本的に緊急時の工面でしかない策。

*6:既存株主にとっては自己株式の買付はプラスなのでくだらなくはないのだが、財務政策からするとB/Sの右側をいじくってEPSを向上させる全く本質的とは言えない見せかけの政策であると同時に、経営判断としても明確に課題を抱えているフェーズにある企業として投資に回さず買付に回すというのは愚の骨頂であり、もっと批判されてしかるべきである。

*7:いつも思うのだが、オリエンタルランドはディズニーというブランドの恩恵を受けながら真面目にパークを運営してきただけなので、何もこのトップラインを誇るからといってエクセレントカンパニーであるとは言えない。が、社内の人間は自分たちの力で稼いでいると思っていそうだから怖い。

*8:無論、財務体質が良すぎるのでここで増資をすると方々から批判を食らうことになるだろう。しかし、新規事業への投資とパークの拡大というのは立派なエクイティストーリーだ。

センスのない善意ほど怖いものはない、という話。

結果よりも過程に感情移入する人々

なんか震災で千羽鶴騒動があったり、不謹慎狩りとかの話があったんでこれトップに置いときますね。(16.04.27)


business.nikkeibp.co.jp

小田嶋先生のコラムは僕は大好きで毎週金曜日の掲載を楽しみにしているのだが、今回ほど快哉を叫びたくなる記事は久々だ。

僕はこの手の違和感に小学校の頃からずっと悩まされていた。

「ベルマーク集めは確かに効率の良くない作業だけど、あの運動を通じて培われる一体感と教育効果は、決して無駄にはならない」
「ほら、一隅を照らすっていうじゃないですか」
「そうそう。貧者の一灯っていう言葉もありますしね」
「PTAのお母さんたちが、個々の家庭の事情や貧富の格差を超えて、あのとてつもなくチマチマとした面倒くさい作業のために協働することが、PTAという組織の強化にどれだけ貢献したのかという、そこのところを考えなければいけません」
「そうですとも、奉仕は、おカネやモノじゃなくて、何より一人ひとりの人間のかけがえのない勤労を捧げるのが本筋ですよ」

これ。まさにこれ。

動機が正しければ結果はどうでもいいのだろうか。どう考えてもそれは「やらなかった方が」みな幸せになったのではないか。むしろ、それをやったことによって「誰か幸せになったのだろうか」。否、幸せになった人はいる。それは「それを成し遂げた人」である。たいていの場合において、こうした過程にしか注目しない催し物は「それを成し遂げた人」がくだらない自己満足を得て終わる。そしてやられた方はプラマイゼロならまだしも、マイナスになることもしばしばである。

こんなのもある。

www.sponichi.co.jp

校長のコメントが大ボケで笑える。ボランティアの意味をわかってんのか?

このニュースは今でも吐き気を覚える。この「ボランティア委員会」なるものの思考方法は手に取るようにわかるのだが、ボランティア=いいこと=みんなやるべき、となって「全生徒強制」となったのだろう。企画した生徒も頭がおかしいが、それを認める学校と張り出した教師もすべてが異常者という類稀なる例であろう。しかし、この手の批判を加えると、必ず「向こう岸」にいる人から猛烈に感情的(今風にいうとエモーショナル)な批判が返ってくる。

「どうしていいことしているのにそんな冷めるようなこと言うんだよ!!」

この手の人は残念ながらこの国に大多数いる。「がんばったから」「いいことだから」「素敵やん?*1」の一言ですべてが帳消しになる。そしてちょっとした涙があればもう誰も結果を見ていない。誰も「いいこととはどういうことか」を考えようとしない。こういった考えが支配的な国においてボランティア活動など本当はすべきではない。なぜならこのようにボランティア精神を間違った形で解釈する輩がうようよ出現するからだ。

そして昨年のこれである。

diamond.jp

はっきり言おう。全く美談でもなんでもない。むしろ本人と部員と周囲の大人の見識を疑うレベルである。賛成する人はどういうロジックでこの件に賛成しているのだろうか。

おにぎり20,000個作ることが「本当に勝利への架け橋」なのか?こう問うと

「おにぎりのおかげで勇気づけられた」

「本人がよいと思ってやっているからいいんだ」

「美しいじゃないか」

的な感情的な反論がくる。こんなものは全く意味をなしていなくて、どう考えても2万個のおにぎりが甲子園での勝利に直結するなど、風が吹けば桶屋が儲かる程度の話であり、論理的に実証はできない。ではそれ以外やることはなかったのか?考えた結果がそれなのか??もし僕がこのような結論を聞かされたら大いに落胆をして「もうちょっと考えてみないか」と優しく促すであろう。

しかし、しかしだ。運動部、しかも戦前のまま時が止まっているシーラカンスのような生きる化石である日本の運動部(特に最も酷い甲子園出場校の野球部)に所属しているわけである。マネージャーがそのような考えに至るまでに洗脳されていたとしてもおかしくない。だからこそ、ここでの最大の異常者は周囲の大人であると言っておきたい。

監督も、その他の先生も、「おにぎりはこれ(ポケットマネー)で買ってきていいから、君はこのチームがさらに強くなるために何ができるかを考えなさい。」となぜ一言も発せなかったのか。100円×20,000個=2,000,000円。たかだか200万円だ!200万ぐらい教師の給料でも出せるはずだ。え?出せない?金額的な問題でマネージャーに作らせたんだって?だとしたらこのマネージャーの奉仕は無料だとでも言うのだろうか。これぞみなさんが嫌うブラック企業の論理だ。若いマネージャーの一瞬は、そのくだらない仕事しかしていない君らのような教師の給料とは比較にならないぐらい価値のある時間だ。

「あいつは健気にかんばっとる。うんうん。」

どうせそんなことを言って周りの教師は問題視すらしていなかったのだろう。そんな価値観の教師がこの国にはたくさんいて、教育を行っているのだから空恐ろしい。

だからこそセンスのない善意は恐ろしい

動機が美しいだけで方向性が誤っていて結果が出なかったとしてもそれをよしとする。もしくは結果が出た場合に(他の理由の可能性が高いにも拘らず)美しい動機に原因を求める。学校ではテストの点よりもやる気という影も形もないものが主観的に評価され、効率性と結果の重要性は誰も論じない。我々は常にこうした行動原理で行動してきた。そして多くの場合、これらに対する批判を封じてきた。さらに言えば時に多大な圧力を以って潰してきた。

センスがあれば何の問題もないのだ。センスさえあれば結果も出るから。ただ、大きな問題として「動機が美しい」だけでその企みに乗ってくる人ほどセンスがない。なぜなら結局、感情だけで事象を評価しているから何が成功要因なのか過去から全く学んでいないからだ。

そろそろ、思考も近代化したらどうですか?

*1:島田紳助さんは素晴らしいお笑い芸人であると同時に素晴らしくインテリジェンスのある芸能人で、この国民性を見抜いてそれをビジネスにしていた。島田紳助さんは恐らく「漫才ではダウンタウンに勝てない」「しゃべりでは明石家さんまに勝てない」だから、ということであの手の路線に向かっていたのだと思う。ちなみに明石家さんまさんは自分の芸にストイックなのでブレることなくこれを逆に笑いに変えている。

「結局大学じゃないよね」という言説に潜むトリック、という話。

論理学の浸透加減を嘆いてみる

必要条件と十分条件と聞いて「あぁ、中学数学の・・・」程度しかないとしたらあなたは相当不幸だ。なぜなら必要条件と十分条件ほど身の回りの現象を理解するのに役立つ論理学の素養は他にないからだ。

www.nikkeibp.co.jp

なぜこんなにも論理学の基礎知識に欠けている人々が多いのかというと日本の高等教育でほとんどそれとして教えられない(数学であったり国語であったりそういったところに散りばめられている)ことと、何より上記のような「パッと見」よくわからない説明がそこらに溢れているからだ。特に数学が嫌いな人は「x^2=4のときx=-2は必要条件か十分条件必要十分条件か」という問いを見ただけでゲロが出るだろう。(答えは十分条件

最近就職活動に思うこと、から論理学的に説明してみる

おそらくバブル崩壊後、ぐらいだろうか。とかく仕事は学歴じゃないよね、とか就職に学歴は関係ないよね、とかそういったことが言われだしたように思う。80年代の詰め込み教育と過度な学歴信仰へのある種の反動としてのそういった論の広がりであったのだろうとは容易に推測できる。だが、僕自身はずっとこの命題「よき仕事をする人間に学歴は関係ない」「就職活動の成功に学歴は関係ない」にずっと違和感があった。特に自身が就職活動を終えたときにはむしろ「間違いである」と確信するに至った。では、皆は何をどこで間違えているのだろうか。

就職活動の現場にいる大人たちの話をまず注意深く聞いてほしい。仕事に成功している大人たちの話を注意深く聞いてほしい。それらの人たちは大抵こう言っている。

「仕事/就職活動で成功するには学歴だけではないよね。」

実は「学歴」という言葉は「論理的思考能力」という言葉に置き換えが可能だ。なぜなら偏差値と論理的思考能力に相関関係があるからで、なおかつ、「偏差値が高ければ学歴が良い」と逆の「学歴が高ければ偏差値が高い」のどちらの命題も成立するからだ。(従って以降は学歴=論理的思考能力と置き換えながら読み進めていただきたい。)

学歴だけではない→学歴が必要ない、という論理展開は全く正しい部分がない。「だけではない」は「不足している」という意味である。言い換えれば「学歴は最低条件である」ことは認めているということだ。

ポイントはここである。就職活動で成功するには学歴だけではない、の場合において「学歴」とは「必要条件」なのである。十分条件では決してないし、ましてや学歴というものを否定するものではない。一方で、「学歴がある人は仕事/就職活動に成功している」という命題は成立しない。なぜなら仕事/就職活動の成功において学歴というのは単なる「必要条件」であるからだ。

つまり、仕事/就職活動の成功のために学歴の有無というのは「必要十分条件ではない」が「必要条件ではある」ということだ。言ってしまえば「仕事/就職活動の成功に学歴は関係ない」というのは結局、ある命題について必要条件なのか十分条件なのか判別できないが故の推論であったから、と言わざるを得ない。

実はこの手の基礎的なトリックはセンター試験TOEICのリーディングに頻出するので、そちら方面の人々も論理学を勉強するべきである。

(ちなみに以前映画談義をしているときに「内容が面白いことは映画がヒットするための十分条件でしかないですよね」という話をしたら「???」という顔をされて面食らったことがある。)

論理学の基礎を学ぶために

論理学はマインドセットを入れ替えればものすごくシンプルな話をしているにすぎない。マインドセットってなんだよって話ではあるのだが、要は「抽象的なものを抽象的なまま処理すること」である。僕自身は高等教育の目的は詰まるところここにあると思っていて、これに欠けているとすれば「学生時代遊んでっからダメなんだよ」と冷たい言葉を投げかけてみたい。

こういうと非常に難しい話に聞こえるかもしれないが、僕たちは小学校1年からその訓練が始まっていることを思い返すべきである。

1+1

これぞ抽象である。りんごとみかんが〜と具体に落とさずとも、両手の指を使って数えなくても、式の上で完結する。これが僕は抽象的思考の始まりではないかと思う。

基礎の基礎を知るにはいい本です。

実は学生時代に著者である平尾先生の授業を受けており、そのご恩もあっての紹介なのだが、それを差し引いてもオススメであることには変わりない。論理学の基礎の基礎の基礎について一定程度網羅的に触れられている良書である。僕自身も最初はまずこの本を読んで「三段論法とは〜」とか「対偶とは〜」というところを理解した。その後、小論文の内容がより整理されていったことは言うまでもない。興味があれば読むべし。

(授業では僕の論文が何度か優秀作として選ばれ、授業中に受講生の前で平尾先生からベタ褒めされたのは今でも覚えているぐらい嬉しかった。平尾先生の意地の悪い(あの人は絶対底意地の悪い人だと思う)授業方針は万人に受け入れらるものでも、理解されるものでもなかったが、根気よく彼の発言を追うと実は受験を突破するにおいて最大級の破壊力を持つ武器を手にいれることができるのだが、残念ながらほとんどの人は気づかず脱落していく。今でもお元気なのだろうか。)

蛇足:学歴とは何か

先ほど「成功するには」という言葉を多用したが、こういった論においては外れ値を外して考えているもので、実はここでいう成功とは一般的な意味での成功ではない。本当に意味していたのは「成功の期待値が高い状態」である。

野球選手として成功すれば、学歴などなくても非常に高い給料や名声をもらえる。だが、その確率はどの程度であろうか。つまり期待値として数値化してみると、一流大学(一流というのは東大・京大・一橋・東工大早慶である)を出る場合と比較すると、実は一流大学出の方が期待値としては勝っているのではないだろうか。

で、あれば、これから野に放たれようとしている17・18歳の子供たちにとって、その瞬間にできる「最も楽な投資」は「大学受験」なのは間違いない。こんなにローコストでリターンの期待値が高い投資はない。それ以外の期待値を考えるとギャンブルの領域である。しかも、僕はここを最も強調したいのだが、大学受験は高校卒業資格/大検さえ持っていれば「誰もが平等に受験資格を与えられ、過去は一切問われない」のである。

例えばあなたが競馬の騎手になりたいとしよう。しかしどうだろう、身長が180センチあればその時点で「スタートラインに立つ事さえも許されない」のである。この事例は極端ではあるが、基本的に大学受験以外に「誰もが平等にスタートラインに立てる」試験・挑戦などない。酷い場合は身体的問題で選外となるし、大抵の場合は「運」の力を借りないと自分の力を試す場すら与えられない。

であるとすれば、なぜ勉強をしようとしないのか、ということだ。学歴差別はまだ日本社会に根強く残っているし、これからも絶対に消えない。学歴がなければ大企業には就職できない。大企業でなくとも学歴があれば他の学生と比較して圧倒的優位に立てる。なぜなら「学歴差別は良い人材を見極めるのに最も効率的な手段である」のは間違いないからで、学歴神話は実は神話ではなく事実だからだ。学歴が論理的思考能力を担保したいるとみなし、「必要条件」で足切りをして、その後の面接で「十分条件」を探る、とすれば面接の回数をグッと減らすことができる。

学歴がなくとも優秀な人物は確かにいる。何かのせいで不幸にも大学受験ができなかった人物はいる。そういう人を切り捨てていいのか、という主張は確かに一定程度理解できる。では、あなたが会社の人事採用担当で1,000通を超える履歴書を受ける立場だったとして、その事情を斟酌すべく、1,000人に対して面接を繰り返して1,000人分の事情を調べ、1,000人分の能力を見極めることは果たして現実的だろうか。果たして「コストに見合う」行動であろうか。

だからつまり、もしあなたが威力のある学歴を持っていないのだとしたら、勉強を今すぐにでも始めるべきでなのだ。

英語力とはいったい何なんだ、という話。

www.daily.co.jp

本の学校教育が間違っているという幻想にすがるわれわれ

最近の日本人の英語の状況を見て、よく「コミュニケーションのための英語」の訓練が足りないだとか、「学校の教育がよくない」とかそういった議論がなされることが多い。確かに中学校・高校の英語教員の質は押し並べて低く、どこかの地方の教育委員会TOEICのテストを教員に課したというのが、図らずも英語教員の質が「そこまで低かった」ということを表している。

英語教員、全員TOEIC受検へ=和歌山県教委 - 教育・文化ニュース[東書Eネット]

Test of English for International Communicationという正式名称からも分かる通り「コミュニケーション」のためのテストとされているので、「コミュニケーション」問題を気にしている多くの日本人には、問題解決の一筋の光のように見える、いや、もはや一筋と信じていることと思う。だが、TOEICの出題範囲とレベルと言えば極めて基礎的なレベルであり、満点を取るのは難しいが900点レベルを取るには全く苦労しないテストだ。英語能力の判定テストとしては(しかも教員が使うようなレベルとして)全く意味のないテストと言って差し支えないのではないか。もちろん、英語ができる人は必ずTOEICのスコアは取れる。しかし、TOEICのスコアは英語能力の最低保障にすぎず、それ以上を判定するための必要条件にはなり得ない。先の命題の逆は成立しない。*1

確かに「しゃべる」「聴く」は専用の訓練が必要なことだ。しかし、TOEICの平均スコアが512点の国において言えることは、「その次元に全く達していない」ということである。512点しか取れないというのは基礎の基礎すらない状況であり、しゃべる・聴くのトレーニングしたとて無意味である

TOEIC|プレスリリース|2014年度|日本人の平均スコアは512点、48カ国中40位にとどまる

野球選手を目指している者が筋トレを全くやっていないのを見てあなたはどう思うだろう?まさに、「コミュニケーション」というお題目を叫び続けている人はスポーツ選手に向かって「筋トレも走り込みもいらないからバッティングフォームだけやっとけ!そしたら打てるようになる!!筋トレ?あれはボディビルダーがやることや!」と言っているのと大して変わらない。過度に高度な単語・文法(筋トレ)は「学術界(ボディビルダー)」にしか必要はないが、単語・文法の基礎的な理解(筋トレ)なしにはどんな人にもなれない。換言すると、能力を伸ばす過程のどこかでそれ専用の教育が必要となるが、我々のレベルはそもそもその時点に至っていないので、基礎体力から問題を論じずには現状を突破できないのではないか、ということである。そしてまさに基礎体力の充実に徹しているのが日本の学校教育である。つまり、日本の学校教育で「コミュニケーションに関するトレーニングが足りていない」という一部の主張は一定程度正しい(実際に話すトレーニングは満足に行われていない)が、問題のポイントは「そこではない」し、「すべきことは他にある」ということだ。「あなたが英語ができないのは、あなたが悪いんじゃなくて、学校教育のシステムの問題ですよ」というのは聞こえもよいからそこにすがりつきたくなる気持ちもわからないでもないが、この手の言説は学習者に現実から目をそらすのに手を貸しているだけである。

ところで、先の記事の解説も記者が英語を分かっていないのか、分かっていない人に向けて苦心しているのか多少的外れになっている。

この「lazy」が「怠け者」と和訳された。確かにlazyは「怠惰な」、「のろまな」という悪い意味で用いられるが、 

ここで問題なのは「lazy」の解釈ではなく「Some」を正しく訳文に反映できなかったことだけである。someをつけることでここでは「日本人のサッカー選手全てが怠け者」と言っているわけではない、ということになる。ちなみにこの手のトリックを使った問題は大学受験始め、論理学を用いたテスト(公務員一種なり就職なり)では常識中の常識で、経験者で知らない人はいないだろう。例えばこのインタビューの後に正誤問題があって、その一つにひっかけとして「According to the interviewee, there are not Japanese soccer players who make an effort to study English.」という一文が紛れ込んでいて「間違い」と答えさせるというのがある種の定番である。(無論、原文にsomeがなければ正解)

では、どうするか(まずはTOEICのテストの点を取ることを考えながら)

高校生は下記の部分をセンター試験に読み替えてもらって構わない。なぜならセンター試験TOEICも基礎的なことをバランスよく問うテストであり、「しゃべる・聴く」に至る前の準備運動としては最適であるからだ。

自己紹介をしておくと、僕自身は日本人で、留学経験もなく、大学受験以外で塾も通ったことがなく、両親も日本人というドメドメな環境で暮らしてきた。だが、ノー勉で一回目は800点付近をマークし、(そのまま懲りずにノー勉で向かった)2回目で900点を超えた。テクニック的な部分は外すとして通ってきた道を振り返るとリーディング部分の得点を伸ばす方法は下記でしかない。

  • 単語を覚える
  • 文法・語法を理解する

はいはい、まだページ閉じないでください。ページを閉じようとしたあなたは、まさに現実から目をそむけようとしている。英文解釈?構文?長文読解トレーニング??笑えます。そんなレベルに達していないから600点もいかないのであって、長文読解トレーニングとやらは難解な、大学受験で言えば「明らかに指導要領の範囲を超えた」英文の読解に必要なものであって、TOEICのレベルでは全く必要ない。筋トレがつまらないように、単語・文法の基礎トレーニングもつまらないもの。ただ、ここには何の抜け道もないし、テクニックもない。ただゴリゴリやるしかない。それが現実。

しかし、だからと言って英文を読んで出会う未知の単語、解けなかった文法をただ覚えているだけでは時間の浪費。そんな時には必ず書籍を使うのが鉄則。

(人気の教材は下記から。アフィリエイトですので参考になったと思う方は下記からどうぞ。)

アルク2014年人気英語教材ランキング

オンラインサイトを勧めておきながらアレだが、書籍は人によって向き不向きがあるのは事実だ。例えば大きいところでいうと、単語帳には「長文を読ませるもの」と「単語と申し訳程度の例文が載っているもの」がある。個人的には長文に時間をかけたくなかったので、後者を選択したが、前者の方が文脈で覚えられるから合っているという人がいたのもまた事実である。もっと細かいところでいうと、デザイン(見た目)だけで「おえーっ」となって積み本になる人もいる。であるからこそ、まずは大きな書店に行って自分の目で「あ、これならできるかもしれない」というものを選ぶのが一番である。酷い本を外せば、内容は似たり寄ったりであるので、まずは「やれそうな」ところから手をつけて「出会う→暗記」というプロセスを動かすことがポイントだ。それで足りなくなったら高度な書籍を選べばよい。(そしてダメな本を見極めるのにはamazonalcがおすすめである。気に入ったデザインを見つけたあとに検索をして、売れていないorレビューが極端にひどい本を外せばいいのだ。)

おそらくこの2つをきっちりこなすだけで、すぐに高得点に達する。リスニングの部分も文法の理解が進めば、実は問いのリード文を読むだけである程度答えが類推できるものである。(例えばWhat 〜?で聞いているのだから答えは絶対に「名詞」になるはずだ、等の類推)それだけでも聞き逃した・聞けなかった問題への余裕ができる。そうすると自分のペースを乱すことなく最後の問題まで達することが可能であろう。

最後に最も重要なことは「自分のスタイルを確立すること」である。人それぞれ抱えている問題も、目指すべき道も、性格も全てが違うはずなのだから、定型の道などあるわけがない。おそらく努力をしているのにTOEIC・センターごときの点が取れていない人は「あれがいいらしい」「こうしたほうがいい」「こうやってあの人は成功したらしい」という自分としてピンときていないにも拘らず、それぞれの方法論の本質を理解せずにとりあえず模倣しているのではないだろうか。少しでも思い当たる部分があれば、まずは自分を見極めることをおすすめします。

と言いつつも・・・

外国人と英語でコミュニケーションをとる、というお題目は実はもっと細分化して議論をしなければならない。自分の意思を伝えるだけなら動詞と名詞をつなげればそれでよいのであって、別に正しい文法・語法などは誤解のない範囲であれば使う必要はない。言ってしまえば常に命令文で話せば文法的に間違えようがないのだ。もしくは文法がグチャグチャな上に"you know"を連発する恥ずかしい英語や"something like"でしか表現できない稚拙な英語を話せればよいというのであればフィリピンにでも行って英会話教室に通えばいい。 アメリカには英語どころかスペイン語ですら満足にしゃべれないような人々がうようよいるが、全く彼らは彼らで問題なく生活できてしまっている。それが現実だ。もしかして、みんなが叫んでいるコミュニケーションとはこの程度のものなのかもしれない。

ちなみに、今回対象にしている「英語の能力」は「人として信用され」「それなりの階級の人々の間でも笑われない」程度の能力ってことだったんだけどね、という最後の最後に前提を明かす大学受験で言えばまさに悪問のような展開で本日はお別れしたいと思います。

 

*1:無論、TOEICのスコアが取れていない人は英語ができない人である。対偶は常に真なり。