よくあるかもしれないけどないかもしれない

基本的には思ったことを書くだけのブログ

「結局大学じゃないよね」という言説に潜むトリック、という話。

論理学の浸透加減を嘆いてみる

必要条件と十分条件と聞いて「あぁ、中学数学の・・・」程度しかないとしたらあなたは相当不幸だ。なぜなら必要条件と十分条件ほど身の回りの現象を理解するのに役立つ論理学の素養は他にないからだ。

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なぜこんなにも論理学の基礎知識に欠けている人々が多いのかというと日本の高等教育でほとんどそれとして教えられない(数学であったり国語であったりそういったところに散りばめられている)ことと、何より上記のような「パッと見」よくわからない説明がそこらに溢れているからだ。特に数学が嫌いな人は「x^2=4のときx=-2は必要条件か十分条件必要十分条件か」という問いを見ただけでゲロが出るだろう。(答えは十分条件

最近就職活動に思うこと、から論理学的に説明してみる

おそらくバブル崩壊後、ぐらいだろうか。とかく仕事は学歴じゃないよね、とか就職に学歴は関係ないよね、とかそういったことが言われだしたように思う。80年代の詰め込み教育と過度な学歴信仰へのある種の反動としてのそういった論の広がりであったのだろうとは容易に推測できる。だが、僕自身はずっとこの命題「よき仕事をする人間に学歴は関係ない」「就職活動の成功に学歴は関係ない」にずっと違和感があった。特に自身が就職活動を終えたときにはむしろ「間違いである」と確信するに至った。では、皆は何をどこで間違えているのだろうか。

就職活動の現場にいる大人たちの話をまず注意深く聞いてほしい。仕事に成功している大人たちの話を注意深く聞いてほしい。それらの人たちは大抵こう言っている。

「仕事/就職活動で成功するには学歴だけではないよね。」

実は「学歴」という言葉は「論理的思考能力」という言葉に置き換えが可能だ。なぜなら偏差値と論理的思考能力に相関関係があるからで、なおかつ、「偏差値が高ければ学歴が良い」と逆の「学歴が高ければ偏差値が高い」のどちらの命題も成立するからだ。(従って以降は学歴=論理的思考能力と置き換えながら読み進めていただきたい。)

学歴だけではない→学歴が必要ない、という論理展開は全く正しい部分がない。「だけではない」は「不足している」という意味である。言い換えれば「学歴は最低条件である」ことは認めているということだ。

ポイントはここである。就職活動で成功するには学歴だけではない、の場合において「学歴」とは「必要条件」なのである。十分条件では決してないし、ましてや学歴というものを否定するものではない。一方で、「学歴がある人は仕事/就職活動に成功している」という命題は成立しない。なぜなら仕事/就職活動の成功において学歴というのは単なる「必要条件」であるからだ。

つまり、仕事/就職活動の成功のために学歴の有無というのは「必要十分条件ではない」が「必要条件ではある」ということだ。言ってしまえば「仕事/就職活動の成功に学歴は関係ない」というのは結局、ある命題について必要条件なのか十分条件なのか判別できないが故の推論であったから、と言わざるを得ない。

実はこの手の基礎的なトリックはセンター試験TOEICのリーディングに頻出するので、そちら方面の人々も論理学を勉強するべきである。

(ちなみに以前映画談義をしているときに「内容が面白いことは映画がヒットするための十分条件でしかないですよね」という話をしたら「???」という顔をされて面食らったことがある。)

論理学の基礎を学ぶために

論理学はマインドセットを入れ替えればものすごくシンプルな話をしているにすぎない。マインドセットってなんだよって話ではあるのだが、要は「抽象的なものを抽象的なまま処理すること」である。僕自身は高等教育の目的は詰まるところここにあると思っていて、これに欠けているとすれば「学生時代遊んでっからダメなんだよ」と冷たい言葉を投げかけてみたい。

こういうと非常に難しい話に聞こえるかもしれないが、僕たちは小学校1年からその訓練が始まっていることを思い返すべきである。

1+1

これぞ抽象である。りんごとみかんが〜と具体に落とさずとも、両手の指を使って数えなくても、式の上で完結する。これが僕は抽象的思考の始まりではないかと思う。

基礎の基礎を知るにはいい本です。

実は学生時代に著者である平尾先生の授業を受けており、そのご恩もあっての紹介なのだが、それを差し引いてもオススメであることには変わりない。論理学の基礎の基礎の基礎について一定程度網羅的に触れられている良書である。僕自身も最初はまずこの本を読んで「三段論法とは〜」とか「対偶とは〜」というところを理解した。その後、小論文の内容がより整理されていったことは言うまでもない。興味があれば読むべし。

(授業では僕の論文が何度か優秀作として選ばれ、授業中に受講生の前で平尾先生からベタ褒めされたのは今でも覚えているぐらい嬉しかった。平尾先生の意地の悪い(あの人は絶対底意地の悪い人だと思う)授業方針は万人に受け入れらるものでも、理解されるものでもなかったが、根気よく彼の発言を追うと実は受験を突破するにおいて最大級の破壊力を持つ武器を手にいれることができるのだが、残念ながらほとんどの人は気づかず脱落していく。今でもお元気なのだろうか。)

蛇足:学歴とは何か

先ほど「成功するには」という言葉を多用したが、こういった論においては外れ値を外して考えているもので、実はここでいう成功とは一般的な意味での成功ではない。本当に意味していたのは「成功の期待値が高い状態」である。

野球選手として成功すれば、学歴などなくても非常に高い給料や名声をもらえる。だが、その確率はどの程度であろうか。つまり期待値として数値化してみると、一流大学(一流というのは東大・京大・一橋・東工大早慶である)を出る場合と比較すると、実は一流大学出の方が期待値としては勝っているのではないだろうか。

で、あれば、これから野に放たれようとしている17・18歳の子供たちにとって、その瞬間にできる「最も楽な投資」は「大学受験」なのは間違いない。こんなにローコストでリターンの期待値が高い投資はない。それ以外の期待値を考えるとギャンブルの領域である。しかも、僕はここを最も強調したいのだが、大学受験は高校卒業資格/大検さえ持っていれば「誰もが平等に受験資格を与えられ、過去は一切問われない」のである。

例えばあなたが競馬の騎手になりたいとしよう。しかしどうだろう、身長が180センチあればその時点で「スタートラインに立つ事さえも許されない」のである。この事例は極端ではあるが、基本的に大学受験以外に「誰もが平等にスタートラインに立てる」試験・挑戦などない。酷い場合は身体的問題で選外となるし、大抵の場合は「運」の力を借りないと自分の力を試す場すら与えられない。

であるとすれば、なぜ勉強をしようとしないのか、ということだ。学歴差別はまだ日本社会に根強く残っているし、これからも絶対に消えない。学歴がなければ大企業には就職できない。大企業でなくとも学歴があれば他の学生と比較して圧倒的優位に立てる。なぜなら「学歴差別は良い人材を見極めるのに最も効率的な手段である」のは間違いないからで、学歴神話は実は神話ではなく事実だからだ。学歴が論理的思考能力を担保したいるとみなし、「必要条件」で足切りをして、その後の面接で「十分条件」を探る、とすれば面接の回数をグッと減らすことができる。

学歴がなくとも優秀な人物は確かにいる。何かのせいで不幸にも大学受験ができなかった人物はいる。そういう人を切り捨てていいのか、という主張は確かに一定程度理解できる。では、あなたが会社の人事採用担当で1,000通を超える履歴書を受ける立場だったとして、その事情を斟酌すべく、1,000人に対して面接を繰り返して1,000人分の事情を調べ、1,000人分の能力を見極めることは果たして現実的だろうか。果たして「コストに見合う」行動であろうか。

だからつまり、もしあなたが威力のある学歴を持っていないのだとしたら、勉強を今すぐにでも始めるべきでなのだ。