よくあるかもしれないけどないかもしれない

基本的には思ったことを書くだけのブログ

俺たちの片岡飛鳥のクオリティはこんなものじゃないんだぞ、という話。

www.fujitv.co.jp

本質と表層という視点

いまフジテレビを取り巻く状況は最悪である。同業界のみならず、異業界からも「救いようがない」「もう打つ手はない」とか言われてしまう始末。フジテレビはいつからつまらなくなってしまったのだろうか。僕はフジテレビが大好きな人間で、ドラマと言えばフジ、バラエティと言えばフジ、テレビと言えばフジ*1であったが、僕の感覚で言えば2008年くらいからだろうか、その辺からフジテレビを見なくなっていった。

時代の流れなのかもしれない、好みが変わっただけなのかもしれない。確かに僕はいつの間にか子供のころあんなに毛嫌いをしていたNHKをよく見るようになっていたし、バラエティ番組よりもドキュメンタリー番組を見るようになってしまっていた。それは僕が年をとったからだろうか。それとも、NHKが面白くなったからであろうか。NHKが前よりも格段に面白くなったのは事実だと自信を以て言えるが、やはりどう考えてもフジテレビの、しかもバラエティ番組がとてつもなくつまらなくなってしまったのではないかと僕は思っている。

そしてその象徴かのように、先日のFNS27時間テレビFNS27時間テレビ2015 めちゃ×2ピンチってるッ!~本気になれなきゃテレビじゃないじゃ~ん!!~」があげつらわれている。かの読売新聞ではでかでかとコラムの枠がとられ、何もわかっていないコラムニストによる「バッシング記事」が掲載された。

しかし、「過去の使い回し」と「他局の類似企画」が理由なのだろうか?*2

過去の使い回しだろうと他局の類似企画だろうと面白いものは面白いものだ。過去の使い回しが面白くないのなら、延々と古典落語を続ける落語家はどうなってしまうのだろう。リメイクを続ける志村けんはどうなってしまうのだろう。面白さの本質は新しさではない。本気が類似企画や使い回しにはないだなんて、志村けんに向かって堂々と言えるのだろうか?

ネットでも原因は予算の縮小による〜とか安易な番組作りが〜とかそもそもフジテレビがクソとかありがちな原因から恨み言のような指摘まで様々なものがあふれている。しかし、僕はどれにも賛同できない。

なぜなら僕は、なぜ自分たちが面白いと過去に言われていたかについての「本質」を理解していないスタッフが増えたからではないか、と思っているからだ。

ありがちなリメイクや続編の落とし穴

映画でもドラマでもなんでもそうだが、リメイクや続編を制作するときに「何を引き継いで」「何を新しく」するかという選択はよく間違えてしまう。無論、どのようにしたいかによってその正しさは可変なのだが、唯一「形をとりあえず追う」パターンだけは絶対に失敗する。なぜなら「なぜそのような形になったのか」をきっかけ・経緯を理解せずに成り立たせようとするからだ。

道に迷った作品のオリジナルが偉大であるように、かつてのフジテレビはさんま(ビッグ3)をはじめ多くの芸能人が言うように確かに凄かった。地下芸人のタモリをお昼の帯番組に据え、人気のない小堺一機に帯番組を任せた。特番が1桁台のひょうきん族をレギュラー化し、チャンスを与えられた石田班は見事にレギュラー化を勝ち取った。上層部の判断も凄ければ、また、制作陣は見事にその期待に応えて数々の伝説を築き上げた。

そして今年の27時間テレビを制作した中心メンバーであるめちゃイケ班もフジテレビの一つの伝説である。フジテレビらしさに溢れる華々しい企画・斬新な演出で人気を集め、90年代後半のバラエティ番組の雛形を作るまでに至った。

しかし、誰もが思う「なんだか違う」めちゃイケになってしまっているのは、ネタ切れでもなんでもなく、華々しい過去が「本質」が霞ませ、現場の作家、ディレクター、そして演者ですら本質の追求をいつしかやめてしまったからだ。そう、リメイク・続編の失敗パターンにはまってしまっているからである。これはめちゃイケにはもちろんのこと、フジテレビ全体が陥っている病であろう。

そして、今年の27時間テレビはまさにそのパターンにはまっていた。

本質とは何か?フジテレビらしさとは何か?

この問題を考えるときに僕はいつもこの対談の三宅さんの発言を思い返す。

ほぼ日刊イトイ新聞 - おもしろ魂。

笑いの場合には、
「おもしろい台本ですから、
 これをそのままやってください」では、
絶対に出演者はみんなそのとおりには、
やらないんですよね。

しかも、そこで台本どおりやるような人は、
そもそも、だめなんです。

「あ、これおもしろい……ちくしょう……」
そこから自分で考えるような人ばかり、
ぼくは、つきあってきました。

「だから、まずは
 演者を乗せることから憶えなきゃ」
っていうような話を、
腹が立ってきたものだから、
そのディレクターに、
延々と話してしまいまして……(笑)。

 フジテレビバラエティ番組の伝統とはこの「演者の自由度と演出の束縛」のバランスが肝であった。100%作り上げるドリフ(アドリブでさえリハで出し切っていたそうだ。)に対して、決まった台本とその設定で遊ぶ演者による爆発にかけたひょうきん族。そしてその伝統を引き継ぎ、場所を中から外に移して、よりハプニングを発生させるように仕掛けたのがめちゃイケである。フジテレビのバラエティは事前の制作陣による強固な土台の設計とそこで演者に遊ばせる懐の広さが絶妙なバランスを保っており、そここそが面白さの秘訣であったと言っていい。

 そしてめちゃイケを作り上げた片岡飛鳥自身もこのようなことを言っている。

mikageya.com

三宅さんは技術的なことはあんまり教えてくれないけど、
「笑いの心」みたいなものは大切に教えてくれるからね。
俺がそれで教えてもらったことで、印象に残ってるのは
「笑いは空気だ」ってこと以上に、
【ディレクターは全部説明できなくちゃいけない】ってこと。
例えば、この飲み屋のスペースがコントのセットとするじゃない?
もし、高須さんがディレクターだったなら、
高須さんは今、このテーブルに来てる「おぼろ豆腐」の意味を
説明できなくちゃいけないのよ。

一見するとさ、それを説明しようとすることが
おもしろさに繋がるような気はしないわけさ。
別に飲み屋に豆腐は変じゃないでしょ、とかってなるわけ。
でも、そういう納得をしちゃう人はディレクターに向いてないわけさ。
タレントさんがいて、セットの中でキャラを演じる時に、
「ねぇ、これどうしておぼろ豆腐なの?」と聞かれたら、
それを的確に説明してあげるのが演出であって、 ディレクターの仕事なんだ、と。
中には説明が足りなければ、不安になるタイプのタレントもいるから。
全てが説明できる空間でなければ、タレントは安心して遊べないわけよ。
安心して遊べるときにはじめて、笑いの力が発動するっていうのは
三宅さんに教えてもらったことで、今、自分の中でものすごく納得してる
ことなんだけどね。

また、別のほぼ日の連載ではこのようなやり取りもあって、まさにフジテレビのバラエティの魅力、そしてめちゃイケの魅力を言い当てているなぁと思える会話があるのでそちらも抜粋させて頂く。

ほぼ日刊イトイ新聞 - ほぼ日テレビガイド2004・2005

糸井 そう考えると次長課長のタンバリンが光るな。
あのタンバリンはほんとにおかしかったんです。
西本 ぼくが感心したのが
タンバリンが3つも用意されていたことですよ。
ふたり あああ~。
西本 番組側の準備の周到さが出てましたね。
永田 しかもすぐ出さずに、
「タンバリンある? きたきた」
っていう感じで出てきたでしょ。
糸井 そう。そこの演出もいいんだよね。
西本 あれ、もっと準備してますよ、きっと。
山本さん、品川くんのほかに
さんまさんがタンバリンを叩くことも
流れのなかでは
ありえたかもしれないじゃないですか。
もしかすると準備する側は
全員でタンバリンを叩くという
絵ができる可能性もいったんは描くわけで。
それを考えると
あの番組は恐ろしいと思いましたよ。
糸井 ということは村上の発言から
タンバリンに広がったのは偶然じゃないんだ。
西本 村上発言はリサーチしてあるでしょうから、
その発言をどうフォローするか
ということですよね。
タンバリンを使わないことも、
もしくは全員が使うことも考えてるんですよ。
糸井 すばらしいね。
「そういう仕事をしたい」というのが
にしもっちゃんの考えることですよね。
西本 ええ。そのとおりです。
総合演出という立場の人が
なにが起こるかわからない生放送のなかで
どこまで想定して準備をするかということと、
その場でどんどん決断して
捨てていくというすごさですよね。
「さんま・紳助」の
コーナーでもそうでしたけど、
あれだけ芸人さんが集まって
ものすごく真剣にやり合ってるなかで、
どのタイミングでCMに行くのか?
というのはすごい決断ですよ。

 これをしかも生放送で軽くやってのけてしまうところ、これこそがフジテレビであり、その系譜を受け継いでいるめちゃイケなのだ。

しかし、ここ最近のフジテレビはこれができなくなってしまった。何ができなくなってしまったのか、それは生放送での対応・・・ではない。笑っていいとものグランドフィナーレを見るとわかる。フジテレビバラエティ班の生放送への対応力は全く衰えていない。CMのタイミングからスイッチング、あれだけの大物がいる中であのステージを生放送で(いや生放送だからこそ)作り上げてしまう力、それが未だ健在であることを立派に証明してみせた。

できなくなってしまったのは舞台設定の構築である。片岡飛鳥の言う「なぜおぼろ豆腐なのかに理由があり説明できるようにすること」である。

今年の大久保のマラソンに何か意味があったのだろうか。フジ縛霊はどうしていきたかったのか。どこにオチがあったのか。なぜスリラーなのか。ホンキーダンスは岡村隆史の1時間ダンスの前振りではあったが、1時間ステージに何の意味があったのか。そこに芸人としての見せ場はあったのか。なぜ27時間放送し続ける必要があったのか。

ここで片岡飛鳥の集大成であった2004年の27時間テレビと対比しながらこの問題点を考えてみたい。

片岡飛鳥らしさが詰まった最高に笑えた27時間の至福の時

2004年の27時間テレビはただただ片岡飛鳥の考える、そして構築してきた「お笑いの雛形」の集大成であり完成系のようなバラエティ番組であった。好き嫌いはあるだろうが、生放送のテレビ番組として2004年の27時間テレビを超えるものはないのだろうと思う。なぜなら、すべての企画が緻密な台本と設定、そして「遊び」によって支えられていて、その帰結が必ず「お笑い」になるコント番組であったからだ。

笑わず嫌い王のオチはなんだっただろう?今であればとんねるずがネタをやってただの豪華なネタ見せ番組になっていただろう。加藤のマラソンはどうなっていたか?今であればかおりちゃんが出てきて涙の再会で終わっていただろう。岡村のボクシングは?かま騒ぎは?

笑わず嫌い王はただのネタ見せ番組ではなく、最後に「裏かぶりで画面から消えなきゃいけないナインティナインの為に時間がなくなり、ネタができない山本圭一」というオチが用意されていた。しかも仲が良いはずの石橋貴明が嫌いな芸人として山本を選ぶというオチまで用意され、その後はお約束の「ブチ切れで大混乱のままCMにいく」という最高に綺麗な流れが用意されていた。

中居くんにもしっかり見せ場が用意されていた。SMAPが5人揃ってライブをするというのがメンバーの「ボケ」によって毎回達成されないというコントを27時間(正確には日曜日の夕方あたりに達成された)に渡って行った。(途中でスマステーションとクロス中継まで行って視聴者の度肝を抜いた。特にテレビ好きの。その衝撃に関してはその後のさんまによる「中居!説明してくれ!」の一言に集約されている。)

かま騒ぎではお笑い芸人たちのお祭りを用意した。おそらくとてつもない時間を取材に費やし、いろんな仕掛けを用意して盛り上がるように持って行った。そして片岡飛鳥ひょうきん族ADという伝家の宝刀を持ち出し、ハプニングとして「出たがりの明石家さんまが帰っていなかった」という最高の演出/仕掛けをそこに施した。見ている側のあの瞬間の「キターーー!!!!!」というワクワク感は本当に忘れることができない。無論、翌年のさんま×紳助にも大興奮をしたのだが。(ちなみにあの場で明石家さんまが本気で矢部に駄目出しをしていたのだが、当時の矢部の司会とフジテレビ大反省会(2002〜2013)でのさんまの司会を比べると怒る理由もよくわかる。)

そして明け方のココイチテン。後年の歌うま選手権につながる企画だが、「みんなうまかったね」では終わらなかった。最後に内村光良が当時の笑う犬のコントの衣装で登場し「ド下手な歌」を歌い、(途中から歌を歌わず)殺陣を演じ、そのまま「蒲田行進曲」(=ヤラセのネタばらし)をやってオチをつけた。*3

加藤のマラソンは番組の大オチのために用意されていた。最初から「こんなマラソン誰も求めてない」「走らなくていいだろ」と「イヤイヤ走る加藤」という設定(前振り)をイヤというほど繰り返すことで構築しながら、さらにスーパーサッカーの生放送に連れて行き(しかもTBSのプロデューサーが出演したのである!)、マラソン中に多摩川の土手を走る加藤で金八先生のオープニングを生放送でやり、朝8時にはのりお師匠が出てきて、散々マラソンとは関係無いことに付き合わせることで加藤を振り回した(という設定)。これは単なるマラソンコントではなく、「イヤイヤ走る加藤を走らせているのにも拘らず、しかも足を引っ張る」というオチに向けてのさらに強化した「前振り」である。

岡村隆史のボクシングは「テレビの本気」を見せるための「無理をさせる」企画ではなかった。実際は無理をしただけの企画になってしまったが、これは「岡村隆史が凄すぎることをやったおかげで皆が加藤のマラソンを忘れる」為の「フリ」でしかない。岡村隆史具志堅用高と死闘を繰り広げる→加藤のマラソンを忘れ皆が感動する→いつの間にか加藤がゴールしている→「イヤイヤ走らされ」「足も引っ張られ」「最終的に忘れられた」加藤がブチ切れて山本とケンカコントに持ち込む、という27時間を使った壮大なコントでしかない。

演者たちは真面目にやっている。もしかしたら感動も起きるかもしれない。しかし趣旨は「そこではない」のだ。

めちゃイケが面白かったのはいったい何か?

こう考えてみると2007年のオカザイルを境にオファーシリーズが面白く無くなっていき、中居正広の日本一周が「ただの繰り返し」になっていったこともわかるのではないか。

目的は「そこではなかっ」たはずがいつの間にか「そこ」になっていた。がんばる岡村隆史に感動するのが目的ではない。年末に岡村隆史フルマラソンを「間違えて」やってしまう。*4がんばる岡村隆史が「つい」中居くんより前に出て踊ってしまう。「つい」マイクを奪って歌ってしまう。がんばる岡村隆史のがんばってる方向が間違っている、もしくはその努力が誰かに迷惑をかけてしまう、やってはいけないという前振りを崩してしまう、そういったことが「そこ」であったはずだ。

中居くんがぞんざいに扱われるというのは日本一周という壮大なコントの大目標だが、緻密に組まれた流れと設定の中で中居正広が巻き込まれるというのが醍醐味であって、毎回サングラスが破壊されたり、風呂場が流されたりといったパーツパーツをなぞることではない。パーツはコントの設定と状況に応じて毎度姿を変えていくべきものであって、サングラスを破壊するために流れを作っているわけではない。最近の神父によるキスコントはもはや「むりくりぞんざいに扱う流れを作っている」ようにしか見えなかった。主従が逆転している。

今年の27時間テレビだってそうだ。

フジ縛霊には取材はあったか?仕掛けはあったか?スリラーのオチは全体でどこのつながっているのか?なぜ若手芸人が前に出られなかったのか?実力不足が問題なのか?仕掛け不足が問題なのか?さらば青春の光の問題は気まずくならない仕掛けはあったか?丸投げではなかったか?仮に丸投げでも処理できる実力とサポートがそこに用意されていたか?

ダンスでやりたかったのは何か?No Limitの無限ループはただ無理をさせていだけではなかったか?

マラソンでは何がしたかったのか?コントはどういう意味があったのか?加藤が丸刈りにすればそれはオチなのか?

全ては笑いの手段であったはずが、いつしかお約束だけがなぞられるようになり、「なぜそのようなお約束ができたのか」を考えることを忘れてしまった。

めちゃイケの異変とはここに原因があり、そして27時間テレビのつまらなさへとつながる。全ては緻密な設定と台本とあそびによる「ボケ」を「コント」という手法を用いて作り出すのがまさにめちゃイケであり、めちゃイケ班が作る27時間テレビであり、「そこ」こそが「本質」であったはずだ。

昔のめちゃイケは感動の後にオチが必ず出てきた。しかも壮大な感動の後に「とてつもなくくだらない」オチがでてくる。毎回、視聴者はオチがあることを知りながらどう落とされるのかワクワクしていた。

しかしいつからか舞台設定を作ることがなくなった。流れも消滅した。だからこそボケの威力がなくなった。全てが単発となりお約束を表面的に繰り返すように見えるようになった。岡村隆史ががんばることが目的となった。「過去の使い回し」と言われるようになった。全てがとってつけたボケに見えるようになった。表層的と感じるようになった。感動させるようになった。そしてつまらないと思うようになった。ここまでくればいかにかのコラムニストの指摘が無意味で浅いかがよくわかるだろう。問題の本質はもう一段深いところにある。

設定と流れが緻密であればあるほど使い回しにもお約束にも意味が発生する。なぜならおぼろ豆腐にさえ意味性を作り出すのが設定だからだ。そしてボケが流れの中から生まれるから笑いは単なる足し算ではなく、幾何級数的に増幅していく。そして流れのある感動だからこそ、くだらないオチが際立つ。それを毎回やっていたのがめちゃイケであった。だからこそ奇跡のように面白かった。

無論、片岡飛鳥も偉くなりすぎたし、めちゃイケメンバーも忙しくなりすぎた。そして大物になりすぎた。だから昔は勢いだけでできていたことができなくなっているだろうし、昔は時間をかけることができた打ち合わせとリハーサルに時間がかけられなくなったのかもしれない。

めちゃイケの最初のオファーシリーズで「ただダンスを真面目にする」ことの何が面白いんだと片岡飛鳥に食ってかかった岡村隆史。今のめちゃイケを見て彼は何を思うのだろう。僕は今こそ、岡村隆史片岡飛鳥をビンタしてほしい。あなたの面白さとはこんなものではなかったはずだと。

当時は若手芸人ならではの笑いもあったのは確かだ。しかし、今は今で面白いことができるはずだ。岡村隆史に限って言えば、僕は、今が一番面白いと思う。彼は地獄を見て、本当に面白くなった。つまらなくなった期末テストも岡村隆史の抜群の「いじり」能力で面白いコンテンツであり続けている。前回の期末テストの岡村隆史は本当に圧巻であった。応援し続けてきて本当に良かったと思うし、これからも応援し続けていきたいと思う。

僕はまだ信じたい。ナインティナイン片岡飛鳥というユニットの能力を。

次こそ、本気を期待します。

 

最後に松本人志のワイドナショーでのコメントを紹介してこの記事を締めたい。

www.excite.co.jp

「パロディーやってんのに、日テレの真逆にいっていない時がある。大久保さんのマラソンとかさ」

「チャリティーじゃないんやから、別に走る意味もないし、別にヤラセでもいい。もう、(番組の意味自体が)ねじ曲がっちゃってる」

「(芸人を)ポンと丸投げで、雑に扱ってる」

「僕はもうちょっと愛をもってやってほしい」

「うまくいったらお互いの得で、まずくなったら芸人が損する」

「芸人が頑張るだけに、とにかく芸人が損する感じが、僕はすごく悲しい」

 

*1:報道は口が裂けてもフジとは言えず昔から三流の報道で、フジの報道の人でさえフジ報道志望の学生に「なんで報道なのにフジなの?」というレベル

*2:あんなコラムで金がもらえるのだからいい商売だ。

*3:映画版の蒲田行進曲をヤラセというと語弊があるのだが、劇中劇、という意味で。

*4:思えばこれが加藤のマラソンコントの原型だ。